WHAT’S IJINKAN異人館について
神戸・北野異人館とは
神戸港開港と共に発展した北野町界隈
1868年1月1日の正午、英米の艦隊18隻から一斉に祝砲が撃たれ、神戸港は華々しく開港。多くの外国人が訪れ、住居とすることで、この神戸という街は諸外国の文化を取り入れたハイカラな生活様式へと発展してきました。
では何故この神戸・北野に異人館があるのか?
そんなことについて、開港を中心に、少し歴史を振り返ってみましょう。
江戸時代、日本は海外との貿易を制限してきましたが1853・1854年と続く黒船来航(ペリー来航)で日本は開国を迫られ、アメリカ側と1カ月の交渉の後、ついに日米和親条約が結ばれました。(1854年3月3日)。この条約後に初代駐日総領事として任命されたハリスは、開港場として江戸と大坂を希望してきましたが、幕府側はそれを拒否し、江戸の代わりに神奈川を、大坂の変わりに堺付近の港を開港する事を主張しました。
しかし、堺付近の開港は天皇がいる京都の近くであり、奈良の御陵にも近いことから政府を悩ませた結果、兵庫港が対象に挙がったのです。
ハリスは幕府の主張に同意し、1858年に日米修好通商条約により開港が決定。しかし、兵庫が実際に開港したのは、それから9年後の1868年1月1日のこと。
攘夷運動や朝廷の猛反対があり、幕府は開港の延期を申し出るため文久遣欧使節団をヨーロッパへ派遣したという記録が残っています。この使節団の交渉により、1863年に予定していた開港は5年延期となり、朝廷がある京都に近い兵庫港は、横浜や長崎よりも遅れて開港することになったのです。では何故兵庫港から神戸港へと予定が変わったのでしょう?
兵庫港はかねてより天然の良港であり、貿易の拠点ともあって既に背後地に人家が控えていて、開港した場合に必要となる公使や貿易商達の駐在に必要な敷地(居留地)を確保できないのに対し、旧湊川を挟んで東側の神戸には、大きな船も受け入れられる大水深の港が建設できる海岸が広がり、また、居留地を建設できるだけの広大な畑地・砂地があったのです。
以降、外国船がしばしば兵庫津(兵庫港)に現れるようになり、ついに1865年には英米仏蘭の艦隊8隻が神戸港沖に来航し、神戸港開港を要求し威嚇を始め、兵庫港即時開港を要求します。朝廷は各国との友好・通商条約をやっと勅許しましたが、兵庫港が朝廷の禁裏とあまりにも近いため孝明天皇は兵庫開港だけは許可しませんでした。
元々の居留地の候補地だった兵庫港に入港できなかった8隻の艦隊は開港の返事待ちの1865年11月4日からの3週間にわたり兵庫の東に上陸し神戸村・二つ茶屋村・走水村・花隈村・北野村をくまなく精査したのです。
このことから神戸の地に最初に西洋人が足を踏み入れたのは、1865年11月4日。
英のハリー・パークス卿は「兵庫の即時開港には失敗したが新しい外国人居留地を選定する絶好の機会を手に入れた」「村人たちは、きわめて友好的であった」としています。
1867年、孝明天皇が崩御されると各国との間に「兵庫・大阪規定書」が取り交わされ兵庫開港の勅許が降り開港期日を1868年1月1日と布告されました。
この規定書が出来て初めて第一条に兵庫居留地の場所が「神戸町と生田川の間」と決められ開港に向け居留地の建設が始まりました。
1868年1月1日神戸港は開港しましたが、居留地の建設はまったくの途中で神戸に来た外国人から大ブーイングが起り、幕府は事実上瓦解する事態になります。
明治政府も耐えられなくなり3か月後の1868年3月26日に「兵庫雑居地約定」を発布し、現在日本人が住んでいる場所である宇治川と生田川の間に外国人達が自由に居住することを認め、いわゆる「雑居地」が設けられました。
当時の外国人達は馬を所有しており、居留地から雑居地である北野村に土地を探しに馬に跨ってやって来た外国人達を見かけたそうです。そして、仕事場である居留地に一直線だったことから多くの外国人達がこの北野村を住居地として好んだという事です。
戦火・老朽化・震災等多くの理由で異人館は少しずつその姿を消して行きましたが、第二次世界大戦後1960年頃までは200棟近い異人館が残っていたと言われています。
そして今、現存する異人館は20棟を下っています。